薪ストーブに火が入った部屋で、湯気の立つカップを受け取った。お湯で割った柚子シロップだ。口元に近づける前から、香りが立ちのぼってくる。窓の外には、紅葉の始まった山々が重なっていた。
2025年11月、私たちは徳島県つるぎ町の山あいにある Yuzu You を訪ねた。迎えてくれたのは、吉岡香織さん。有機JAS認証を受けた柚子を育てる農家であり、理学療法士でもある。
大阪育ち、祖父母の畑へ
吉岡さんはつるぎ町の生まれだが、それは里帰り出産だったからで、高校を卒業するまで大阪で育った。両親はこの地域の出身だ。
周辺では50年ほど前から柚子の植栽が広がったが、吉岡家の両親はそのころ大阪で働いていた。いま柚子が実る場所は、もともと祖父母が野菜を作っていた畑だという。仕事を引退して戻った両親が「柚子がいいぞ」と聞き、苗木を植えたのが10年ほど前。吉岡さん自身がこの町に移ったのは15年ほど前で、収穫と出荷が本格的に始まったのは、ここ5年ほどのことだ。
2分間のプレゼンが変えたもの
転機は、地域の課題を学ぶ「とくしまフューチャーアカデミー」だった。町役場の知人に誘われたものの、最初は興味が持てず、何度も返事を濁したという。それでも声をかけ続けてもらい、2021年に参加を決めた。
半年ほどの講座の最後に、自分の見つけた課題と、仲間と何ができるかを2分間で発表する。理学療法士らしく、高齢者の運動をテーマにするつもりだった。ところが、準備の途中で考えが変わった。
「ふっと柚子が降りてきて。不思議だったんですけど、柚子やと思って」
頭にあったのは、手伝いの中で感じていたことだった。柚子は重く、木には鋭いトゲがある。収穫は重労働だ。それなのに、両親に出荷の値段を尋ねて驚いた。これほど良い香りのものが、こんなに安いのか。
地元の人でも、つるぎ町が柚子の産地だとは意外に知らない。「この町の柚子を有名にしたい」。その思いが、吉岡さんを動かし始めた。
実がなるまで18年、実生柚子という選択
Yuzu You の畑で、吉岡さんが特に力を入れているのが「実生(みしょう)柚子」だ。一般的な接ぎ木の苗なら、収穫まで5年ほど。一方、種から育てる実生は18年かかる。
「18年もかかるのを、どないすんねんって親には言われて」と吉岡さんは笑う。それでも植えたのは、香りが違うからだ。吉岡さんの言葉を借りれば、皮から溢れ出るような香り。酸味も強く、木の勢いも盛んで、6〜7メートルにまで育ち、100年、200年と生きる木もあるという。
いま畑には、200本ほどの実生の苗木がある。実がなる頃の畑を想像しながら、木が育つのを待っている。
土に返す、山の畑
畑では農薬も化学肥料も使わない。2025年には、以前から続けてきた栽培で有機JAS認証を取得した。きっかけを尋ねると「漠然とした憧れです」と率直に答えてくれた。農業支援センターの助けもあり、取得そのものは思ったより順調だったが、記録を続ける更新の作業はこれからが正念場だという。
この地域は、世界農業遺産「にし阿波の傾斜地農耕システム」の地でもある。山の斜面で受け継がれてきた農法にならい、畑には茅(かや)を使う。茅は土に返り、肥料になっていく。
「いまそこに生えているものを、土に返しながら肥料にする。そこに価値があるのかなと思います」
皮までおいしく、夜の加工場から
柚子をもらっても使い切れない。そんな声をよく聞いて、吉岡さんが最初に作ったのはジャムだった。てんさい糖を使い、皮をたっぷり入れる。無農薬の柚子だからできることだ。「皮がこんなに入ったジャムは、めったにないと思う」と胸を張る。
もっとも、作ることが得意だったわけではない。「苦痛で、苦痛で」と笑う。柚子の皮には強い苦みがあり、下処理を欠かせない。それでも食べ続けると舌がピリピリすることがあるほどで、農薬のせいと誤解されることもあるが、これは柚子そのものの個性だという。
東京から来たバイヤーに厳しい意見をもらったこともある。「売りは何?」と聞かれて「ないです」と答えてしまい、ジャムは競合が多いとも言われた。そこから生まれたのが、輪切りの柚子を瓶いっぱいに詰めた新商品だ。シロップを作るときに、氷砂糖とはちみつに漬け込んだ柚子を、そのまま食べられる形にした。
理学療法士の仕事は正社員で、朝から夜まで。加工はその後になる。取材の前年は深夜2時、3時まで作業が続き、2025年は手伝いの人に一部を頼むようにした。「できるなら、今すぐにでも柚子一本でやりたいです」。そう話しながらも、踏み出すための課題を一つひとつ見つめている。
「You」は、あなた
Yuzu You という名前の始まりは、遊び心だった。両親が掲げていた看板の言葉の響きが気に入り、「遊び感覚でやりたい」と「ゆず遊」と名付けた。その後ローマ字の表記に変え、「You」に「あなた」の意味を重ねるようになった。あなたの暮らしの中に柚子を、という思いだ。
やまびこが返る柚子畑へ
最近、吉岡さんが気づいた畑の魅力がある。景色だ。「こんなに広がる柚子畑で、やまびこができるところは、そんなにないんちゃうかな」。
畑には収穫体験の人たちも訪れるようになった。東京から来た人は、柚子がどんなふうに実るのかを知らなかったと驚き、トゲにも驚く。見学に来た小学生たちは、柚子を手でむいて「おいしい」と食べ始めたそうだ。私たちも試してみた。皮は固く、種も多い。酸っぱいのは確かだが、思ったよりまろやかで、確かに食べられる。絞るだけが柚子ではないと、畑で教えられた。
地域の生産組合には70軒ほどが加わるが、生産者の高齢化が進み、収穫量はピーク時から大きく減っているという。夢を聞くと、吉岡さんは迷わず答えた。
「若い人たちが活気にあふれて柚子を作っていて、柚子といえばつるぎ町やな、って言ってもらえること」
そこに向けて、いまは自分の名前で一歩ずつ。Yuzu You を知った人が「どこの柚子?」と尋ね、つるぎ町に行き着く。そんな順番でいいのかもしれない、とも考えている。

