見上げると、まっすぐな杉の幹がどこまでも続いていた。足もとには草がほとんど生えていない。日の光が地面まで届かないからだ。

「杉林って、草刈りする必要ないんですよ」

2025年11月、私たちは徳島県上勝町旭のシシトトラ―浅野農園―を訪ねた。案内してくれた浅野秀美さんは、この町に昔からある柑橘「柚香(ゆこう)」を育てる農家だ。最初に連れて行ってくれたのは柑橘の畑ではなく、祖父母が残した山だった。

下から見上げた、空に向かってまっすぐ伸びる杉林
空を覆うほどに伸びた杉。植えられてから50年、60年がたつ。

杉林の奥に、棚田の石垣

浅野さんによれば、上勝町の面積の8割は山林で、その9割近くを杉の人工林が占める。歩いていくと、崩れかけた小屋の跡があった。炭焼き小屋だという。浅野さんの祖父も、かつては炭焼き職人だった。

「炭って、杉やヒノキでは作らないんですよ。ここに炭焼き小屋があるってことは、周りは針葉樹じゃなかったっていう証拠なんです」

杉林の中で身振りを交えて話す浅野さん
山を歩きながら、この土地の50年をたどる。

木々の間には、苔むした石垣が段々に続いていた。50年前まで、ここは谷を挟んで小さな棚田が連なる場所だったという。浅野さんの父が中学生のころは、下に水車があったそうだ。

高度経済成長の時代、国が杉の植林を勧め、人々は棚田をつぶして一本一本杉を植えた。その後、林業は衰え、町に何十軒もあった製材所はいま3軒だけになった。手入れされないまま、価値のつかない杉が山に残っている。

杉林の中に残る苔むした石垣と、その間を流れる沢
石垣は、かつての棚田の名残。いまは杉林の中を沢が流れる。

日の当たらない杉林では、落ち葉が積もって土が育つこともない。土は痩せ、水を蓄える力を失い、雨が降れば一気に流れ出る。かつては集落で守っていた用水も、田んぼがなくなれば手入れされなくなる。

「過疎地域の山の中で起こりうる悪循環が、ここにほんまに詰まってるんです」

山の栄養は川を通って海に届く。だから山の農業を変えることは、自分の畑だけの話ではない。浅野さんは最近、そう強く感じるようになったという。

杉の木立の下に積まれた石垣
人の手で積まれた石が、杉の根元に並ぶ。

伐った山に、柚香とどんぐりの木を

浅野さんは祖父母から受け継いだ土地で、杉を伐る取り組みを進めている。最初は地元の森林組合に「切れない」と断られた。何度頼んでもだめで、あきらめかけたとき、山道で広葉樹を探しに来ていた木こりさんの車に出会った。阿南市で会社を立ち上げたばかりの若い木こりさんで、「うちだったら切れますよ」と引き受けてくれたという。

「林業も組合しか知らんかったけど、出会いがあればあるほどいいんだろうなって、すごい感じましたね」

杉を伐った跡に整えられた、若い柚香の木が並ぶ畑
杉を伐った跡に開いた畑。軽トラックが奥まで入れるように整えた。

伐った跡のひとつは柚香の畑になった。軽トラックが奥まで入れるようにして、できるだけ少ない人手で世話ができるよう整えている。

別の斜面には、クヌギとコナラの苗木を2300本ほど植えた。補助の制度で勧められたのは花粉の少ない杉だったが、「杉を植えるのは、もう勘弁してくれって」。どんぐりを落とす木を選んだ。次に伐る山には、山桜をたくさん植えたいという。山桜は自ら子孫を残し、花があればメジロなどの鳥もやってくる。

「たぶん私の次に、この山を継ぐ人はおらんかもしれん。だから、地球が自分でより良い状態を作れるような里山にしたいんです」

若い柚香の木の前で笑う浅野さん
50年前の景色を聞くと、50年後も変えられるのではないかと思う。

祖母が思い出した、ヤマモモの木

浅野さんの祖母は90代で亡くなるまで、最後の10年を施設で過ごした。認知症が進み、孫の顔がわかる日とわからない日があった。ある日、祖母が「ヤマモモがおいしい時期だろう」と言い出した。うちの山にヤマモモなんてないのに、と思って父に話すと、「いや、あったんじゃ」。

父が中学生だったころ、田んぼの向かいに大きなヤマモモの木があり、近所の子どもたちがいつも実を食べに集まっていたという。父と見に行くと、折れた大きな切り株が残っていた。

「人生の最後に思い出す風景って、若いころに暮らしたこの場所なんやなって。そういう人でありたいし、そういう場所にいたいなって、すごい思ったんです」

浅野さんは今年、ヤマモモの苗を注文した。景色を取り戻すための、小さな一歩だ。

山を背にほほえむ浅野さんの横顔
「手を入れる価値があるところだと思っているんです」

京都から、祖父母の土地へ

浅野さんは徳島市で生まれ育った。上勝町は父の故郷で、田植えや稲刈り、年末年始やお盆のたびに帰ってくる「田舎のじいちゃんばあちゃんち」だった。

大学進学で京都へ。卒業後はホテルでフレンチのサービスを3年務め、ワインや日本酒にのめり込んだ。その後は法律事務所で4年ほど働いたが、心がすり減っていった。「コンクリートジャングルでは、息が苦しかったんですよ」。祖父母と過ごした農村での体験が、自分の中で大きかったことに気づいたという。

徳島に戻ったころ、いとこに誘われたバーベキューで、上勝町役場で働く今の夫と出会う。プロポーズは浅野さんからだった。

「自分ちの分がいるけん」

結婚後、市内への通勤を考えて仕事を探していたころ、久しぶりに祖父母の畑を訪ねた。すだちがたくさん実ったまま、放っておかれていた。もったいないと思い、すだち、柚子、柚香を収穫して、加工用に出荷した。それが始まりだった。

驚いたのは、柚香の値段だった。あまりに安く、柚香の木は切って柚子に植え替えようかと考えたほどだ。けれど、祖父母はなぜこんなに柚香を植えていたのか。周りの家にも柚香の木がある。安かったと農家仲間に話すと、みんなが笑った。そんなの当たり前だ、と。ではなぜ育てるのか。近所のおじいちゃん、おばあちゃんに聞いて回ると、返ってきた答えは同じだった。

「いや、自分ちの分いるで、って言うんですよ。残った分を農協に出すんだって」

黄色く熟した実をたくさんつけた柚香の木々
黄色く熟した柚香。木の勢いが強く、放っておいても実をつける。

柚香はもともと売るためではなく、自分の家で使うために育てられてきた。トゲがなくて扱いやすく、おいしい。祖父母の家で食べる「かきまぜ」(ちらし寿司)にも、味噌和えにも、柚香の酢がたっぷり使われていた。こういう食文化は、ここにしかない。浅野さんはそのとき気づいた。

しかも、手をかけなくても実がなる。周りに聞いても、消毒をしている人はいなかった。柚香は柚子とだいだいの自然交配で生まれたとされる。一番古い記録は江戸時代の文献にさかのぼるが、それ以前のことはわかっていない。「香りゆず、酸味すだち、味ゆこう」とも言われ、生産量は柚子の1%ほどしかない。

「なんて愛おしい柑橘なんだと思って。でも、このままやったらなくなるなって思ったんですよね」

濃い緑の葉の間に実る、ふたつの黄色い柚香
柚香の皮は薄く、香りが高い。

2021年、浅野さんは祖父母から農地を譲り受け、「シシトトラ」と名付けた。大好きだった祖父・猪平(いへい)さんと、祖母・トラノさんから名前をもらった。

そうして暮らしの基盤を作りながら、柚香を伸ばしていこうとしている。

完熟の柚香を、プロの手へ

柚香は、10月ごろの青いうちに収穫し、果汁を搾ってポン酢などにするのが一般的だった。けれど昔の人は、木で熟した柚香や、追熟させた柚香のおいしさを知っていた。浅野さんが力を入れるのは、黄色く完熟した柚香だ。完熟の収穫は11月中旬から12月上旬までの、1か月足らずしかない。

葉っぱビジネスで知られる株式会社いろどりの横石知二さんも、完熟の柚香に目を向けていた一人だった。「葉っぱの次は柚香じゃ」と言い続けてくれたその言葉を記したパンフレットは、いまも作業部屋に大切に飾っている。

柚香の木の下で、バケツを提げて収穫する人
取材の日も、畑では収穫が進んでいた。

果汁にするため、柚香はこれまでほとんどが搾られてきた。そのため、実そのものを見たことのある人は徳島県内にも少なく、「幻の果実」と呼ばれることもある。

浅野さんが目指すのは、実のままの流通だ。火入れをしない100%の果汁や、柚香と砂糖だけで作るコンフィチュールなども手がけてきたが、一人でできることには限りがある。

「飲食店やパティシエさんとか、プロにいい状態のものを渡して、よりおいしくしてもらって、たくさんの人に届けてもらう。それが一番いい流通の仕方やし、農家としての本業なんかなって」

栽培期間中は農薬を使っていないので、皮まで丸ごと安心して使える。皮は薄く、扱いやすい。2025年には、徳島県のブースで柚香を展示会に出した。浅野さんによれば、柚香で出展したのは史上初めてのことだという。

コンテナいっぱいに積まれた、黄色く熟した柚香
収穫した完熟の柚香。
両手のひらにのせた、ひとつの柚香
手のひらにのる大きさ。トゲのない木から収穫できる。

春まで、柚香を届けたい

課題もはっきりしている。柚香を育てる人の多くは70代後半から80代で、浅野さんは「この10年で生産量はぐっと落ちるはず」とみる。81歳の生産者からは、もう収穫ができないと言われ、全量を買い取って一緒に収穫している。

「柚香って儲かるんじゃって、ちょっとでも思う人がいたら、後継者がつくけん」

高い価格で買い取れる仕組みを作ること。収穫の忙しい時期に、大学や企業と連携して人手を確保すること。浅野さんは、人を増やすより、繁忙期の力をどう集めるかが勝負だと考えている。

山あいの斜面に広がる柚香の畑
山あいの斜面に広がる柚香の木々。

もう一つの目標は、大きな冷蔵貯蔵庫だ。いまはプレハブの冷蔵庫に数百キロしか置けないが、3トンほど保存できれば、春まで生の柚香を届けられる。

ヒントは祖父母の暮らしにあった。甘いものが少なかった時代、柚香をもみ殻の中に入れて春まで置き、田畑の仕事で忙しい4月に食べる。それが、さっぱりしておいしいという楽しみだった。

食文化を次へつなぐことも大切にしている。上勝町の学校では、2026年から柚香を使ったかきまぜ寿司が始まる。小学3年生が柚香の勉強に畑を訪れたこともある。いずれは保育園や小中学校の子どもたちに収穫をしてもらい、町で育つ子どもたちが在来の柑橘に触れられる場所を作りたいという。

実をつけた柚香の木々を背に笑う浅野さん
「葉っぱの次は柚香」。その言葉を、上勝町から形にしていく。

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